ナチスによるチャーチル拉致計画:J.ヒギンズ『鷲は舞い降りた』

  とくに冒険小説や推理小説を好んでいるわけではないが、時に読みたくなることがある。昨今の騒然とした世界情勢が働いてのことであろうか、ほんとうに久しぶりにジャック・ヒギンズ『鷲は舞い降りた』を再読した。また、先月ヒンギスの訃報に接したこともある。

 ヒギンズは、戦争もの、テロリストもの、スパイもの、内戦ものなどを得意とする。本作が代表作だが、そのほか『鷲は飛び立った』、『死にゆく者への祈り』、『脱出航路』など人気の作品も多い。

 

 この『鷲は舞い降りた〔完全版〕』(1992年、菊池光訳、早川書房)は、ナチス・ドイツチャーチル拉致実行計画を主題とする。舞台設定は1943年秋ごろ以降であるから欧州大戦の帰趨はほぼ決しており、この奇想天外な作戦がかりに成功していたとしても戦局の方向が変わったわけはない。

 ただ今回読んでみて、万に一つも、どこからみても成功の見込みがなかったかといえば、そうとも言えない、そんな印象が残った。これは前に読んだ時の印象とは異なる。少なくとも、ナチス側にチャーチル誘拐計画が存在し、それを実行する秘密組織が存在し、あるていどまで作戦が実行に移されかかったのは、この小説が述べている通りであったのではないか、そんな気にさせられた。

 そう思うのは、それだけですでにヒギンズの術中にはまっているわけだろうが、一つにはナチスは成功体験をもっていたことがある。

 それは事実であり、「グラン・サッソの成功」と呼ばれるムッスリーニ救出作戦のことである(1943年9月)。ムッスリーニはイタリアの降伏後バドリオ元帥により捕らわれ、イタリア中部の山岳地帯グラン・サッソの山荘に監禁されていた。警備兵250人が配置されていたとされる。そこをナチスの落下傘部隊が急襲し、ムッスリーニを救出しヒトラーのいる戦線司令部にまで送り届けた。これでヒトラーはいたく喜び、このチャーチル拉致作戦が着想されたとされる。

 

 柳の下のドジョウを狙ったわけだ。この小説の売りは、その作戦の立案から実施に移るまでのプロセスを興味深く丁寧に描いているところだ。作戦に関わった組織員は多士済々であり、ヒムラーを形式上のトップに据え、そのもとにSS(親衛隊)、スパイ、イギリスの現地工作員などが加わった。そのなかにはIRA(アイルランド共和国軍)員でドイツ軍に属する者、南アフリカボーア人(オランダ系)出身の女性工作員などがいた。

 これらのメンバーの織りなす会話が実にいい。多少冗長なところがあり、なかなか話しが前へ進まないのだが、これらのメンバーの会話の中身が格好いい。作戦の計画立案の不安や悩みや狡知が、いかにもナチスナチスしておらず(それがナチス的話し方にはならないのは当然と言えるが)、せりふのやり取りを楽しむことができる。ヒギンズの独壇場だといえるだろう。

 そうした場面での小道具も、充実している。ロシアたばこ、アイリッシュウイスキー、各種ビール、コーヒーなど色々ある。ロシアたばことは、どんなものなのだろう。

肝腎の拉致の計画は、イングランドの北海沿岸の寒村に滞在する予定のチャーチルを拉致しドイツまで運ぶというものであったが、その顚末には触れまい。その間チャーチルが姿を現すことはほぼない。科白を二~三ことはなすに過ぎない。それもこの作戦の渦中におかれた人間のそれとは思えないようなものだ。

 

 さいごに触れておきたいのは、ずっとまえに読んだときは、この作品の終末から二ページ目に数行置かれているどんでん返しを読み飛ばしていたことだ。私にはそのどんでん返しが、フィクションに沿うものなのか、事実に沿うものなのか、これは今回なんどか読み返したがわからない。                    (2022.5.31)