新たなウクライナ戦争論・松里公孝『ウクライナ動乱』書評
本書評は、研究会の口頭報告を文章化したものである。
Ⅰ. 本書の特徴
実証研究である本書は既存の文献・資料にくわえて、著者によるウクライナ政治の当事者への聞き取りに依拠している。聞き取りの対象は、政治家(ドンバス地方の二つの「人民共和国」の創設に関わった者など)、オリガーク(財閥経営者)、州知事、学者である。著者松里は出入国にも困難を伴ったであろうウクライナ東部で2014年8月頃、2017年聞き取りを行い、本書に盛られたその記録は貴重な政治資料・証言ともなっている。
本書の視点というべきものは二点ある。第一点。露ウの政治・軍事関係をウクライナ(とくに東部ウクライナ)にそくして描く。これまでの2022年2月のウクライナ戦争(本稿では2022年2月に始まったロシア・ウクライナ間の戦争をウクライナ戦争ないし露ウ戦争と呼ぶ。以下同様)に関する研究には、ロシアに関心を向け、なぜロシア・プーチンは進攻したのかを考える研究が多い*。本書がウクライナ側からウクライナ戦争を描こうとするのは、同戦争を招いた要因はウクライナ側にもあったはずであり、そこをしっかりと見据えておきたいという意図がある。なぜ、そうした視点をとるのかについては、著者の言いかたを借りれば、「プーチンを倒したころでウクライナはよくない」からである
*塩川伸明編『ロシア・ウクライナ戦争』東京堂出版、2023年
露ウ戦争の開始前からのロシアの変化を描いた著作に、T.スナイダー『自由なき世界』上下(池田年穂訳)慶応大学出版会、2022年、M.ラリュエル『ファシズムとロシア』(浜由樹子訳)東京堂出版、2022年
なお、上記塩川編に、大串敦「現代ウクライナ政治」が収められており、これもウクライナを内から描く貴重な論稿である。
第二の視点は、今の露ウ関係、ウクライナの政治のありかたをソ連の解体からの流れ、つまりソ連の解体から直接につながったものとして捉える方法的視座である。詳しくは後のⅢでふれる。
Ⅱ. 事実の展開の整理:時系列で
本書の歴史的経過に関わる叙述は上記の第二の視点にもとづいてソ連の解体期、ウクライナの独立の時期から始まる。主な事実を時系列で拾ってみよう。
1991年8月 ウクライナ独立宣言。そのさいエリツィン派は、独立するならクリミアはロシアに返せ! と主張したが、エリツィン自身は、当時あった独立国家共同体CISのヘゲモニーを握ることを考えており、そのためには「(ソ)連邦構成共和国の国境をもって新国家の領土とする」を原則とするとしたほうが都合がよいと考えた(pp.65-66)。
1995~96年 ウクライナ クチマ大統領期。クチマ外交によりウクライナ政治は内外に相対的安定を保つ。NATOの東方拡大があったもののウクライナはNATOにもロシアにも中立の立場であった。
2000年頃 NATOによるユーゴスラビア空爆をさかいにクチマ外交が変化。NATO志向へ傾く、それをめぐり国内は分裂(pp.73-75)。
2004年 オレンジ革命。ウクライナの場合、中央政府が独裁的でないため、反腐敗・半汚職運動にとどまる。
2008年 南オセチア戦争(グルジア)勃発。ウクライナ内政に刺激。
2013.12月~14年2月 ユーロマイダン革命。
(ユーロマイダン革命以降は、表1にそって説明する)
表1
表1
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ウクライナ 政府 |
ドンバス(主にドネツク) |
クリミア |
2013,11 |
プーチン大統領補佐官スルコフがロシア入り、ドンバスに現地担当を常駐させる(~20年) |
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2013,12 |
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最高会議議長コンスタンチノフ マイダン派を取り締る(「ヴァンデラ運動=ネオナチだ」)。モスクワと行き来。キエフ政府を批判。反マイダン盛り上がるpp.221 |
2014,1 |
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キエフに反マイダン運動家送り込む |
2014,2 |
2.20スナイパー虐殺事件 2,21 ヤヌコビッチ大統領逃亡 |
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*ロシア語話者比率:クリミア80%、ドンバス60%程度。 |
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・連邦派 連邦化要求 →キエフにより拒絶 ‣アフメトフ(最大オリガーク) 分離派容認 →分離派勢いづくpp.308-309 |
・反マイダン運動盛り上がる(⤵ロシアは動きなし) ・最高会議荒れる(反露/マイダン派v.s.分離派)→ 2,27 ロシアがクリミア最高会議周辺に派兵p.236 2,27最高会議がアクショノフ(ロシア統一党)を首相に選出 |
2014,3 |
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2014,4 |
政府 ドンバスに対テロ作戦開始(主力は国民衛兵隊) |
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4,27 分離派 ルガンスク人民共和国独立宣言 |
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2014,5 |
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*5.2 オデッサ労組会館放火事件(反マイダン派の拠点が襲撃さる)、クリミアにもshock |
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ウクライナ(政府)軍介入 →戦闘激化 |
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2014,5 |
大統領代行トルチノフ |
・最高会議議長ボロダイ、国防大臣ギルキン(以上ロシア市民)、副首相アレクサンドロフ |
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5,25ポロシェンコ 大統領へ |
政府軍押される-州都をマリウポリへ p.325 |
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2014,8 |
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8,17 政府軍 ルガンスク市中心部突入、ドネツク市完全包囲 ‣プーチン 「共和国が滅びない程度に助けるが分離独立するところまでは助けない」p.350 |
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2014,9 |
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最高会議選挙 ロシア統一党(アクショノフ)圧勝 以降、アクショノフ長期政権へ |
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2014,11 |
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両共和国 最高会議議員選挙(以降、ウクライナ選挙から両共和国抜ける)、首相選出 |
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2015,2 |
ミンスク合意2 |
政府軍v.s.共和国軍、共和国側の勝利つづく
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2015~2018 |
政府 ドンバスを経済封鎖 |
炭鉱閉山相次ぐ、炭鉱・鉄鋼所連携できず オリガーク国外流失 pp.412-414 |
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2019,4 |
ゼレンスキー 大統領へ |
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2019,12 |
ゼレンスキー ミンスク2否定、共和国への攻撃強化 |
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2022,2 |
2,24露ウ戦争開始 |
2,18共和国子ども・女性をロシアロストフなどへ疎開 p.437 |
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表1は、ウクライナ中央政府、およびウクライナ国内をドンバス(ドネツク州、ルハンシク州を指す)とクリミアの二つの地域にしぼって、時期を追いながら本書でふれられている主な出来事を整理したものである。二つの地域に限定したのは露ウ戦争への流れをたどる際の焦点となる地域であるからである。
2013年11月、ヤヌコビッチ政府はそれまで進めてきたEUとの連合協定の協議を停止する。それを機に、国内各地で反ロシア派による抗議・反政府運動が盛り上がり、「ユーロマイダン革命」が始まる。運動はキエフを中心に持続し、2014年2月20日に「スナイパー虐殺」呼ばれる事件が起き、それをさかいに主導権が反政府派に移り、ヤヌコビッチがロシアに逃亡し、政府統治が不在の状態におちいる。
本書はユーロマイダン革命の経緯の詳細には立ち入っていないが、この出来事はその後のウクライナ各地の政治状況のきわめて重要な画期となる。
表1にみるようにドンバスとクリミアは、ユーロマイダン革命の与えた影響に関しては対照的である。まずはクリミアからみていきたい。
クリミアもドンバスもロシア語話者の多い地域であり、ドンバスが60%程度であるのに対しクリミアは80%程度がロシア語話者である。そのことからも想像できるように元来より親ロシア的であるクリミアはユーロマイダンの盛り上がりに対しても極めて慎重であり、マイダン派・反政府派が運動の象徴とする「バンデラ再評価運動」にしてもネオ・ナチ的要素が濃いとみられており、市民の間にも反マイダンの機運が充満していた。2014年1月はキエフに反マイダンの運動家を送りこむなども行われていた。2月に入ると、州最高会議でロシアへの編入のための住民投票を実施すべきとする動議が出され、それに反対するマイダン派との間で議会は荒れた。当初ロシアはそれにさいし特段の動きを見せていたわけではないが、同月末には議会周辺へ軍を派兵するに至った。3月に入り、住民投票が決議され、同16日投票者のおよそ90%の賛成でロシアへの編入が決まった。
9月には最高会議選挙が行われ、ロシア統一党のセルゲイ・アクショノフが首相に選出された。アクショノフは現在でも政権を保ち安定した政治力を維持している。このようにクリミアでは、ユーロマイダン革命をさかいにロシアからの一定の直接のテコ入れがあったにせよウクライナ中央政府からあきらかに離脱する方向が決定的となる流れができあがった。
目をドンバスに転じよう。ドンバスにはユーロマイダン革命時には反政府派としては、ウクライナからの分離独立を求める「分離派」と、国の統治システムを連邦化し自州を一つの連邦内国家として自立を求める「連邦派」が存在した。2014年2月21日のヤヌコビッチのロシア逃亡を機に、分離派は州議会で「人民共和国」樹立のための住民投票の実施を求めた。連邦派も国内の連邦化を求めたが、中央政府からは拒絶された。分離派もいったんは立ち止まったものの、国内最大の財閥(オリガーク)であるリナト・アフメトフの分離派容認発言に勢い付けられ前面に躍り出た。一方、中間派として州知事の座にあったセルヒー・タルータは中央政府と連携し「国民衛兵隊」という義勇軍を創設し事態に対応する姿勢を整えた。
4月に入ると、ドンバスの一方の州であるドネツクで分離派が議会を占拠し「最高会議」を開設し「ドネツク人民共和国宣言」を公にした。同下旬にはルガンスクも「ルガンスク人民共和国独立宣言」を発した。その後、分離派は住民投票に向けた動きを強め、中央政府はその抑え込みに走った。武力対峙も生じ、人民共和国と知事との二重権力状況を呈するにいたっていた。
そうした状況に対して、ロシアも絡み始めていたが、プーチンは住民投票には反対するとの意思表示を行った。それは、400万の人口を擁するドンバスが分離独立するならウクライナの総選挙などの政局においてロシアからの意向を反映させるための梃子が失われることであり、ロシアにとって得策でないとの判断があったからだとされる。
5月にはドネツク人民共和国は「憲法」を制定し、最高会議議長が選出され、内閣も編成された。議長と国防大臣にはロシア市民が就任した。他方、5月下旬にはウクライナの大統領選挙が行われ、空席となっていた(代行は置かれていた)大統領にポロシェンコが当選した。ポロシェンコは就任早々ドネツク空港に空爆を加え、ドンバスの2共和国への対決の姿勢をあらわにした。それをさかいに政府と両共和国は戦闘状態に入った。戦況は一進一退で、ドネツク州は州都をドネツクからマリウポリに移すなどをよぎなくされるかと思えば、ドネツク市が政府軍に完全包囲されるような状況であった。このようななかにあってロシアはどうであったかと言えば、「共和国が滅びない程度には助けるが分離独立するところまでは助けない」(プーチン)という姿勢であった。
東部におけるこのようないわば内戦状況のなか戦線は膠着状態におちいる。2015年には独・仏を中心に仲裁が入り、ウクライナは国際的合意を結ぶことになる(同2月)。そのうちのミンスク2と呼ばれる合意は、①東部での戦闘を停止すること、②ドンバス2州に対し特別な地位をあたえる分権化(連邦化)を憲法に明記することを主たる内容としていた。
この国際的合意ののちウクライナは一定の落ち着きをとりもどすが、ドンバス2州には政府による経済封鎖が実施され、それでなくてもかつてのソ連時代の有数の工業基盤は衰微をつづけていたところでもあり、見る影もないくらい経済基盤は衰えてしまっていた。鉱山の閉山は相次ぎ、オリガークの海外流出もつづいた。結局、大統領ポロシェンコは経済の建てなおしには成功せず、ウクライナ・ナショナリズムに訴えるアイデンティティ政治をおし進めるしか術はなかったけれども国民の統合の見込みは立たなかった(2015~18年)。
2019年4月政権はゼレンスキーに移った。ゼレンスキーは、早々にミンスク2の②(ドンバスの両共和国の連邦化)の拒否を明らかにし、ドンバスの統合、両共和国への攻撃に乗り出す。
そこから2022年の2月24日のロシアによる軍事進攻まではおおよそ2年半である。
Ⅲ. 事実の捉え方について
〔ソ連解体と分離政体〕第1章
下記の図にソ連時代の連邦制のありかたを図示した。マトリョシュカ連邦制と呼ばれている。連邦があり、そのもとに連邦構成共和国、そのもとに自治単位とされる政治単位が置かれる構造である。連邦構成共和国とは、ウクライナやグルジア、アゼルバイジャンなどを指す。自治単位は、ウクライナであればそのもとにクリミア、グルジアであれば南オセチア、アブハジア、アゼルバイジャンにはナゴルノカラバフが存在する。
ソ連末期において、連邦法規によれば、連邦構成共和国が独立しようとする場合の規則は二つあった。
①「1990年4・3法」:連邦構成共和国(15か国)は住民投票により分離可、自治単位は分離できない。ただし自治単位は住民投票によりソ連邦に残留は可能。
②uti possidetis juris:国家が解体した時はそれまでの行政区画線が国境となる。これはソ連邦の規則というより国際法一般の原則というべきものである。
ソ連邦の解体後は連邦構成国は独立していったが、上記の①を使ったのはアルメニアだけであった。アルメニアには域内に自治単位がなかったから①が使えた。
自治単位からすれば①が使えないならば連邦に残る(ロシア共和国に残る)こと途も使えないことを意味した。ソ連解体後の過程では、自治単位は分離・自立の動きを激しくすることもめずらしくなくなった。そうした自治単位は分離政体とか未承認国家とでも呼ぶべき存在となったわけである。分離政体・未承認国家にとって方向性として考えられたのは、次のようであった。
(1)民族自決
(2)land-for-peace:これは歴史的事例に基づくと言うべきであり、例示としてアイルランドが独立するさい北アイルランドを親国家である連合王国に置いていった事例。ウクライナとロシアの関係になぞらえるなら、クリミアをロシアに置いてウクライナが独立するという筋書になる。
この(1)(2)については、(2)がナゴルノカラバフ(とアゼルバイジャン)、アブハジア(とグルジア)の場合に一時浮上したことはあったが、実現しなかった。民族自決原理も理想でしかない。
結局、uti possidetis jurisに戻っただけともいえた。マトリョシュカ構造のままであった。自治単位にとって分離の見通しはなく、不満はたまる。国連が何かできたかといえば、国連は自治単位・分離政体を内部にかかえた連邦構成共和国の承認を急ぐばかりであり、国連は「破綻国家製造装置」でしかなかったと著者は言っている。
〔分離政体の先行きをどう占うか〕第5章、第6章
1.上記のように自治単位・分離政体を捉えた本書は、その将来をどのように占っているか。ウクライナのドンバスの二つの「人民共和国」こそ、分離政体であるが、そもそもこの分離政体がどれほどの実体をもっていたかを、ドネツク人民共和国を例に見ておく。
(露ウ戦争開戦以前の状態であるが)、普通選挙制度、最高会議、最高会議議長、首相政、独自の軍隊(「準軍事組織」)、を備えていた。人口は230万人。領土は、「州」の三分の一。
経済状況は、かつてのソ連時代の主要工業地帯であった時分に比べその基盤は大きく失われていた。オリガークも多くが海外に流出した。
*開戦後の状況については、次のように紹介されている。共和国の軍隊は、ロシア軍と連携して(ないしロシア軍に組みこまれて)オペレートした。ロシア軍12万+ドンバス両共和国軍3万5千(ロシア・ドンバス合わせた半数がドンバスとする記述もある)。両軍の分担関係は、地上部隊を担うのが共和国軍であり空てい部隊はロシア軍が担う。両軍の連携が悪く、ドンバス軍の練度も低くかったため戦闘力は低かった。
このような「ドネツク人民共和国」は、分離政体・未承認国家ながら、準国家に近いものになりつつあったとみてよいと考えられる。
2.分離政体の先行きの方向、5つの方向
本書は一般論として、自治単位・分離政体の将来に関しては次の5つの方向が考えられるとしている。
①連邦化
②land-for-peace
④親国家による分離政体の再征服
⑤パトロン国家による親国家の破壊
これらについて、次のように解説を加えている。①連邦化は、合理的に見えるが、社会主義解体後に連邦化により再編に成功した例はほぼないとする。コソボ紛争のさいのデイトン合意にはその兆しはあったとするが。
②の場合は、国境の変更が伴うことが考えられるので、分離政体に不満が強く残る。国際機関も国境変更には賛成できないだろう。提案はされることもあり得るが、進まないであろう。
③は実例がある。パトロン国家が強大であるなら親国家が諦める。南オセチアやアブハジアのケースのグルジアなど。しかしこれにも大きな短所がある。親国家の反感は半永久的になる。ソ連解体後の場合は、親国家がNATOに近づくケースが多く、紛争ぶくみになる。結局③は⑤につながりやすい。
④は例が多い。アゼルバイジャンの第二次ナゴルノカラバフ紛争など。スリランカのタミルの虎のケースなどもそれである。
⑤は、他ならぬ露ウ戦争がそれである。
3.露ウ戦争をどう位置付けるか
これはロシアとウクライナの戦争なのか。それにとどまらず、ウクライナと(ロシア+ドンバス両人民共和国)との戦争なのではないか。著者の捉え方はおそらく後者である。
ポロシェンコが始め、ゼレンスキーが軍事的にやろうとしたのは上記の④ではないのか。
そうした動きにプーチンがどこまで付き合うかは、2022.2.24の開戦直前まで迷いがあった。“両共和国が滅びない程度には助けるが、分離までは助けない”がプーチンの言である。しかし実際は⑤に移行した。この極めて短期での変化は本書でも分析できていない。ただし、プーチンはそんなにお人好しではないことは確かであって、侵攻するなら、両共和国を助けるにはとどめずウクライナの領土も獲る、獲る以上はドンバスにはとどまらない。ドンバスはいまのロシアとは工業基盤としては重なり魅力は乏しい、ヘルソン州、サポリージャ州、さらにはモルドバの沿ドニエストル地域まで視野に入れると考えるようになったのではないか。
4.松里の結論:露ウ戦争をどうとらえるか
・国家ウクライナについて。領土には適正規模がある。それをウクライナはかみしめるべき時だ。クリミアはいうまでもなく、ドンバスの両共和国も内から出てきた分離政体である。もっぱらロシアによって押し上げられた存在ではない。ウクライナ東部のハリキウでも切り離したほうがすっきりするという見方が公にされているくらいだ。ウクライナにとってはこれらの分離政体とは別れたほうがよろしい(ウクライナから切り離したほうがよろしい)。
・ドンバスの両共和国の先行きについて。以下は、本書の叙述をもとに評者の連想を加えたものである。プーチンの侵攻がなければ両共和国やクリミアはどうなっていただろう。共和国が存続しているのなら、共和国は(ウクライナから)分離もせずNATOへも行かず自立を試みているだろう。たしかにウクライナの内にいながらそうした位置を保つのは容易でないだろうが。とまれ、今戦っている兵士はまずは“共和国側であると否とを問わず故郷へ帰ってほしい。西側・オバマと生きたいならどうぞ。10年後生活水準がドネツクのほうが高かったら我々(共和国)の選択が正しかった。そうでないならウクライナは一つになっているだろう”(ボリス・リトビノフの言葉の要約 pp.357-358)。